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【アラベスク】  第4章 男ゴコロ



第3節 父と息子 [14]




 そっけなく答える聡へ、ウーロン茶の瓶を差し出す。仕方なく受けて、一口飲む。
「何が得意だ?」
「得意ってモンなんかないよ」
「じゃあ、夏休み前の模試で、一番成績が良かったのは何だ?」
「英語」
「英語か」
 呟くように言ったところに、戸を叩く音。
「はい?」
「失礼致します」
 先ほどの仲居が襖を開けた。
「ご飯をお持ち致しました」
「あぁ ありがとう」
 お(ひつ)と一緒に茶碗を持って入ってくる。品良く盛ってそれぞれに手渡すと、お櫃に蓋をし、空いた皿を盆に下げて部屋を出る。
「あぁ 暖かいお茶はありますか?」
 泰啓の言葉に、すぐ持ってくると答えて、仲居はさがった。
「年を取るとねぇ、夏でも暖かいものが飲みたくなるんだよ」
 冗談かと疑ってしまうほど、ひどく年寄りじみた言葉。
 だが泰啓は別段おどけるでもなく、膝元においていた団扇(うちわ)で首元を扇ぐ。
 開けた窓からは、品の良過ぎる風しか入ってこない。
「エアコンを付けるか?」
「あぁ」
 そう言って立ち上がった聡の背中に、泰啓が呟いた。
「やりたいコトがあるなら、やればいい」
 リモコンへ伸ばした手を、途中で止める。
 振り返った先で、泰啓が目尻に皺を寄せている。
「別に事務所にこだわる必要はないさ。母さんは固執しているみたいだけどね」
「でも、俺しかいないだろ?」
「税理士事務所なんて、他にいくらでもある。そもそも緩に継がせる気はなかった。本人も興味はないみたいだし、養子なんて考えたこともない。俺の代で消えてしまっても、構わないのさ」
 そう言って窓を見やった。
 外は闇。
 大通りから離れているので、車の音はほとんど聞こえない。
 事務所のために税理士になった、というワケではないと言うことか? では、泰啓自身が税理士という職業に魅力を感じ、自分の意思で継いだというコトだろうか?
 蒸し暑さの中に、蝉の音だけが聞こえる。―――― あと、小川の流れ。
 川というほどでもない小さな流れが、旅館の傍を流れている。
 チョロチョロと、可愛い水音が微かに響く。
「税理士の仕事は、そんな華やかな職業ではないさ。儲かるなんて誤解してる人もいるかもしれないけど、所得もそれほど華々しくはないよ」
 だが母は、税理士になることを希望している。
 実父である正雄の生き様から、手に職をつけることの大事さを悟ったのかもしれない。実力を身につけなければ、口や夢や理想だけでは生きていけない。
「俺の後を引き継いでくれると言うのなら、それは嬉しい」
 そう前置きした上で
「だが、決めるのはお前だ。お前の人生だからな」
 税理士を強要されることには窮屈さも感じる。だが、だからと言って、他にやりたいコトがあるワケではない。
 返答に窮している聡へ、泰啓は視線を向けなかった。
 ただ目を閉じて、小川の流れに耳を寄せる。
「もっとも、自分で決めろと言われる方が、酷なことなのかもしれないな」
 そう言って向けられた瞳は、自分よりずっとはっきりしている。
 はっきりしている…… という表現が、とてもピッタリな瞳だった。
 こんな大人も、いるんだな。
 だが、その胸の内を悟られるのがなんとなく気恥ずかしくて、聡はサッとリモコンへ手を伸ばした。その項を、風が撫でた。

 何かが、ホッと和らぐのを感じた。

 しばらく思案し、伸ばした腕を引っ込める。
「やっぱエアコン、やめとくよ」
「そうか」
 短く答えて泰啓が白飯を頬張ったところに、外から仲居が襖を叩いた。







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